「自社の伝統的な強みが、時代の変化によって弱みと見なされ始めたら?」多くの企業広報が直面しうるこの課題に、真正面から向き合うのは、創業100周年を迎えるシヤチハタ株式会社。「ハンコ不要論」が叫ばれたコロナ禍、同社は電子決裁サービス『シヤチハタクラウド』の無料開放を決断し、社会の注目を集め、新たな顧客層を獲得しました。さらに、BtoBで培った技術を、BtoCへと展開する柔軟性も見せています。旧来のイメージを打破し、新たなブランド価値を創造し続けるシヤチハタ。その変革を支える“危機感”との向き合い方と、挑戦を恐れない企業文化の源泉を、広報室の向井博文さん、櫻間海咲さんに伺いました。
CONTENTS
“ハンコ”だけじゃない!シヤチハタ社が社会に提供する多様な価値とは

広報室室長 向井博文さん
—シヤチハタの事業概要について教えてください。
櫻間:当社は、1925年にインキが浸透することでスタンプ台が乾かない『万年スタンプ台』から始まった総合メーカーです。高度経済成長期の1965年には、スタンプ台にインキを付ける手間を省く『Xスタンパー』を発売し、ビジネスの業務効率化に貢献しました。スタンプ台不要で、連続して捺印できる技術は、後に当社の代名詞ともなる『シヤチハタ印』にもつながっています。そして、Windows95が台頭した1995年には、「紙が不要となるのでは」という危機感から、デジタル認証事業に乗り出し、2000年代にはハンコに関連した家庭商品や産業用途商材など、BtoB・BtoC領域問わず進出しています。
向井:ネーム印という代表商品があることから、「シヤチハタ=ハンコ屋さん」というイメージが強いのですが、私たちは「しるし」を形にする会社です。ハンコは、あくまでも「しるしの価値」を提供するための手段の一つだと考えています。
—「しるし」を重視してきたとのことですが、シヤチハタは「しるし」をどのようなものと考えているのでしょうか。
向井:私たちにとって「しるし」とは、業務を効率化し、明確な意思表示を助け、そして大切な記録や証拠を残すなど、社会や生活に役立つ手段だと考えています。たとえば、かつて多くの企業では、出退勤時に社員が手書きで勤務状況などを記帳する必要があり、時間と手間がかかっていたそうです。そこで、「業務効率化」の手段としてハンコが採用され役立ったと聞いています。他にも、不動産の購入や契約手続きする際の捺印には、内容に合意したという「意思表示」の意味が印影に込められていると考えています。
櫻間:「記録」という観点では、『ぺたっち 犬猫用』というBtoC商品がわかりやすいです。これは、わんちゃん・ねこちゃんの足形スタンプを作成するキットで、誕生日や何気ない日常シーンでペットの足形を残すなど、メモリアルアイテムとして多くの飼い主の皆さまに愛用していただいています。
社会の変化を好機に変える。カギは“危機感”と“挑戦する組織文化”

コロナ禍で無料開放をおこなった『シヤチハタクラウド』
—コロナ禍では、在宅勤務やリモートワークが広がり、社会的に押印廃止の流れが高まりました。当時の貴社の状況についてお聞かせください。
向井:緊急事態宣言が発出された前月の2020年3月に、当社ではリモートワークに役立つ電子決裁サービス『シヤチハタクラウド』の無料開放をおこないました。各社が感染防止対策やサービス提供に乗り出す中、代表の舟橋が「当社もできることをやろう」と、3か月間の期間限定ではありますが、無料開放することを決めたのです。
『シヤチハタクラウド』の前身にあたる電子印鑑システム『パソコン決裁』は、約30年前に開発されたサービスですが、当社がうまく利便性を伝えることができておらず、ほとんど市場認知を得られていませんでした。『シヤチハタクラウド』は、このパソコン決裁をもとにして、場所にしばられず決裁業務をサポートするために開発された電子決裁サービスです。「実際に使用して良さを感じてもらい、認知を広げたい」という狙いもありましたが、どちらかと言うと、社会的ニーズに応えたいという側面からの決断でした。
—『シヤチハタクラウド』をはじめ、時流を汲んだ新商品を生み出すサイクルが早いように感じます。何か社内で意識的に取り組んでいることはありますか。
向井:当社は、常に“危機感”と向き合ってきました。たとえば、『万年スタンプ台』を発売した際には、「いつかスタンプ台が使われなくなるのでは」と感じていました。また、『Xスタンパー』が好評な時でも、「もっと便利なものにとって代わられるのではないか」と考えてしまいます。しかしながら、「いつかこの事業がなくなるかもしれない」という危機感を持つからこそ、常に先を見据えて新しいことに挑戦してこられましたし、時代に即した商品開発へ繋がる場合もあったのではないかと考えています。
そして、代表の舟橋は常に社内の状況を俯瞰して見ているので、社員は安心してさまざまなテーマに挑戦することができています。仮に失敗しても、そこから学び、再び挑戦すればOKです。そのような風土に少しずつ変えてくれました。
櫻間:新しい事業を構想する際には、新規事業部のメンバーだけなく、他事業部でその分野に興味がありそうな社員に声を掛け、意見を聞く会を開催しています。職務や所属に関係なく声がかかるので、普段、ルーティンワークで視野が狭くなりがちな社員も、新しいビジネスの可能性について考えるきっかけになっています。意見を聞く会は、社員の自主的な取り組みです。自社の技術を活かして、新しい分野や事業に介入できないかと積極的に考える社員は多いです。
技術と対話で応えるシヤチハタ流・toB/toC戦略
ユーザーの「声」が開発の原動力。生活者・現場ニーズに応える商品開発

広報室 櫻間海咲さん
—BtoB向け・BtoC向けに、幅広い商品・サービス展開をされていますが、それぞれのアプローチやコミュニケーションで、それぞれ意識していることはありますか。
櫻間:シヤチハタでは、BtoB・BtoCも商品の使い方や開発技術の仕組みはほとんど同じです。しかし、法人と個人では、やはり商品に対する受け止め方やニーズは違うので、ターゲットに合わせたアプローチや表現は心掛けています。たとえば、BtoC商品を使っていただいているクラフト系ユーザーは感度が高く、スタンプパッドの微妙な色合いや、ゴム印の繊細な柄にこだわりを持たれる方が多いです。そのため、SNSの担当者は、写真での見せ方や動画の撮り方など、さまざまな角度から商品がより魅力的に見える方法を選んで撮影・掲載をしています。ユーザーの使い方やご意見、発信から、私たちが新しい活用法に気付かされることも多々あります。
反対に、BtoB商品ユーザーであるビジネスマンに向けて、私たちから発信できる場は多くありません。むしろ、営業側からビジネスの現場で生じている課題や困りごとを、積極的にヒアリングしていくことが必要です。広報としては、潜在顧客に興味を持っていただけるように、分かりやすい商品説明に力を入れています。
—学用品への名付けを楽にする『おなまえスタンプ』や、肌にやさしく石鹸で消せるインキの仕組みを活用した『手洗い練習スタンプ おててポン』など、ユーザーのニーズを商品化することも得意な印象です。新しい商品やサービスをどのように生み出しているのか、シヤチハタらしいエピソードがあれば教えてください。
櫻間:BtoB商品の一例として、ボルト用マーキングスタンプ『ボルトライン』という産業用途商品があります。橋梁を施工する際には、橋に取り付けられた何十万本ものボルトが締まっているかを確認する作業が発生するのですが、ボルトの締め忘れの目視検査には、このボルトを含む立体面に直線を引く必要があります。この工程は、高所作業かつ高度な技術が必要とされるため、ベテラン作業員しかできない作業とされ、かなり時間がかかっていました。
そのような現場の作業員の方からの相談を受けた橋梁メーカーの川田工業さまから、「スタンプ技術を応用できないか」と当社に相談がありました。そこから、エンドユーザーである作業員のニーズを丁寧にヒアリングし、キャリアを問わず正確に作業がおこなえ、業務効率化を図ることができる商品化の実現につながりました。
向井:シヤチハタが「できること」は限られています。素材・インキ・ゴム・プラスチックというプロダクトや技術を活用して、社会課題を解決すること。そして、『おなまえスタンプ』や『手洗い練習スタンプ おててポン』もそうですが、BtoB・BtoC問わず当社が大切にしているのは、ユーザーが便利に、安心・安全に、楽しく使っていただける商品を作りたいという想いです。
これは、アナログだけでなく、デジタルでも同様です。たとえば、電子印鑑を中心としたデジタルサービスを始めた際、印影について、他のデザイン会社からデザイン力を褒められたことがありました。私たちからすると、小さな丸や四角形の中に複数文言や難しい漢字を入れ込むことは日常的に当たり前にやってきたことなのですが、デザイナーの立場から見ると、実は漢字の止め・はらいをなくす、文字の一部を読める範囲で簡略化するという技術は、とても難しくテクニカルなスキルだそうです。自分たちでも気付いていないこうした強みを、より活用していきたいと考えています。
「ハンコ屋さん」のその先へ。100周年を節目にさらなるブランド進化と認知拡大へ
—シヤチハタは、2025年で創業100周年を迎えました。「100周年記念プロジェクト」も実施されていますが、100周年に込めている想いや、これからの展望についてお聞かせください。
櫻間:100周年記念プロジェクトは、各本部から数名ずつ選出した若手社員が中心となって取り組んでいます。たとえば、これまでの100年への感謝、そして次の100年への挑戦を表す100周年記念ロゴや「さあ、もう ひと旗。シヤチハタ100周年。」というスローガンを作ったり、100周年記念ウェブサイトを開設したりという施策は、若手社員のアイデアから生まれました。
これまで、当社の周年企画では、お客さまに向けて感謝を伝えるイベントを開催してきました。今回の創業100周年に関しては、お客さまへの感謝はもちろん、「この100年を支えてきた先人たちや従業員に感謝を伝えたい」という舟橋の意向もあり、従業員がより充実して働ける環境作りや課題解決に向けてさまざまな施策をおこなっています。今年の11月には、従業員とその家族も参加できる記念式典の開催を予定しています。これまでの100年を頑張ったねぎらいと感謝を伝え、また次の100年に向けて邁進するきっかけとなるイベントです。
向井:「ハンコ屋さん」という、お客さまに築いていただいたこの強いブランドをどう変えていくかは、私たちの大きな課題です。また、多くのお客さまから認知をいただいておりますが、若い世代の中ではご存じない方も多いと思います。DX化が進めば、今後は『シヤチハタ印』という商品を知らない世代がさらに増えていくと想定されますので、ぜひそこも変えていきたいと考えています。次の100年も必要とされる企業であり続けるため、さまざまなテーマに挑戦し、社会やお客さまに役立つ商品・サービスを提供できるよう取り組んでいきます。

1984年生まれ、千葉県出身。アパレル会社の営業兼販売員、出版社の月刊誌編集、IT企業の広報・プロモーションを経て、編集・企画・ライターとして独立。現在はビジネスメディアを中心に活動している。経営層から学生まで、人物取材が得意。